鵜飼信一先生のご退職にあたって
「一言だけにします。怪我に気をつけてください。以上。」
本当に「一言だけ」の挨拶に、居並ぶ生徒たちから「おーっ」という歓声があがりました。1994年秋、まだ男子校だった早稲田実業高等部の体育祭冒頭での副校長挨拶でのことです。「本当に一言で挨拶を済ませるなんて、面白いおじさんだ」と思ったのを鮮明に覚えています。これが僕の記憶している鵜飼信一先生の最初のお話(?)です。先生はちょうどその年の春、僕の母校の副校長に就任されたのでした。僕は高校3年生でした。
鵜飼先生は2019年1月3日に古希を迎えられ、3月をもって早稲田大学を定年退職されます。24年間に渡ってさんざんお世話になりながら、盆暮れの挨拶もしたことがなく、賀状さえ出さない、その割には未だに(!)困ったときにはすぐに泣きついてアドバイスをもらう、という甚だ恩知らずの不肖の弟子としか言いようがない立場ではありますが、ここにささやかながら、我が師、鵜飼信一先生についての個人的な思い出と感謝を綴ってみたいと思います。
先生と初めて個人的にお話したのは、僕が早稲田大学商学部への進学が決まってすぐ、高校の恩師に「研究者志望の生徒がいるから、見てやってほしい」と鵜飼先生に個人的に紹介して頂いた時でした。このときは(大隈会館の教員レストラン「楠亭」でした)「これから研究者になりたいんだったら、まず通産省の役人を目指せ。でなければ江夏健一先生のゼミに入れ」というようなことを言われたように記憶しています。漠然と「副校長と話してるんだなあ」、「あんまり相手にされてないなあ」と思ったものでした。右も左も分からない、大学に入る前の高校生にいきなり研究者になりたいなどという相談をされたんですから、アドバイスのしようもない、というところでしょう。
翌年、1年間それなりに勉強して成績を取り、大学2年生になる前(1996年春)にもう一度鵜飼先生とお話する機会がありました。この2回目の面談も高校の恩師の口添えだったと思います。その時の会話は思い出せないのですが、どうやら大学最初の1年間勉強をしっかりやったことを認めてくださったようで、その後から鵜飼先生の授業に出席し、何度か鵜飼ゼミの工場見学に同行させてもらうようになりました。当時、本来ならゼミは3年生からでしたから、公認の「もぐり」で参加させてもらっていたのです。実質上、その時が今まで続く師弟関係のスタートでした。
鵜飼先生はメッキ工場の息子、僕はプレス工場の息子です。早稲田実業という縁に加え、都内の町工場の息子、という共通点もあり、先生にも僕にも何らかの親近感があったのかもしれません。
とはいえ、当時、鵜飼先生は中小企業論の科目は受け持っておらず、統計関連の科目を主に担当しておられました。僕が最初に取った授業は「統計学」で、これはゼミに入る前、2年生の春学期でした。典型的な私立文系の入門授業ですから数学的に高度なことはやられていませんでしたが、当時の日本のどの統計学入門書とも違い、確率論に重きを置いた面白い授業で、時おり確率について哲学的な話をされたのが印象的でした。一方でゼミ生と製造業の現場を訪れ、もう一方で統計学、しかもその中でもより抽象的な確率論を講じる鵜飼先生に強く惹かれ始めていたように思います。
「統計学」の授業ではそれほど多くありませんでしたが、雑談も魅力的でした。印象に残っている雑談の一つは「なぜオウム真理教は化学兵器は作れたのに、まともなピストル1丁さえ作れなかったのか」。理系の高学歴集団で化学的な知識は十分にあっても、一見単純に見える金属加工技術は別物で、精巧な図面があっても実際の加工は難しい。でも彼らが大田区の熟練旋盤工に頼んでいれば、すぐに作ることができただろう、というような話でした。今から考えると、実に鮮やかな技術論です。
次に取った授業が「経済統計」で、これは2年生(96年)の秋学期。3年生以上の配当科目だったので、登録できずに、でも毎回出席していました。この科目、「経済統計」とは名ばかり(?)で、3分の1くらいが雑談、3分の1くらいが中小企業論、残りがマクロ経済統計(特に景気循環)といった内容でした。この授業の雑談が面白いこと!政治、経済、芸能ゴシップ、先生の身近にあったこと、最近読んだ本について、何でもござれの独演会のような授業で、何か社会的な出来事があるたびに「鵜飼先生はこの件について何て言うんだろう?」と楽しみに授業に向かったのを覚えています。また、授業が終わったあとに(科目内容ではなく)雑談について先生に質問しに行くのも楽しみでした。いわゆる「知的な会話のキャッチボール」の愉しみを覚えたのはこの頃だったろうと思います。
当時の雑談で思い出すものの一つが、昭和の巌流島とも称される「力道山 vs 木村政彦」について。1950年代の社会背景、大山倍達も含めた格闘技界、在日韓国朝鮮人の状況などが折り重なる、まるでドラマのような内容で、わくわくして聞きました。今でこそ木村政彦についての書籍は多くありますが、当時はまだ殆どありませんでした。
この頃から、鵜飼先生に本を何冊か勧めてもらい、読み終わるとそれらについて高田牧舎でランチをしながら話すという、個人授業のようなことを学期に何回かしてもらうようになりました。最初は経済関連の本が多かったのですが、その比率はだんだん少なくなり、小説、宗教、思想についての本が多くなりました。僕もただの読後感想を先生に言うわけにはいきません。何か気の利いたことを言おう、面白い点に気づこう、批判的に読もう、と読み進めます。本当にいい勉強、贅沢な経験でした(そしてこの経験は後年、留学先のオックスフォード大学でのディナー会話を始め、イギリスでの生活に大いに生かされることになります)。僕は大学2年生の頃から経済学、特にミクロ経済理論の面白さに目覚め、そちらの方は主に独習していました。経済学「以外のこと」を鵜飼先生から教わる、という一風変わった師弟関係はこの頃に形作られました。
3年生になると、鵜飼ゼミに正式に入ることになります。授業の方は統計学関連でしたが、ゼミは中小企業論でした。僕は学部鵜飼ゼミ10期生という節目に当たるのですが、実は同期は他1名だけ。先生に聞けば「お前みたいな凶暴な奴がいるから追加募集はしなかった」とのこと。僕の「凶暴さ」と、3年の後半からイギリスに交換留学が決まっていたので、少人数にして3・4年合同でやったほうがよい、という判断だったようです。
確かに当時の僕が「凶暴」というのはその通りで、当時の商学部では経済学系で研究者志望の者など殆どおらず、そもそも「毎回授業に来ること」自体が変人であるような雰囲気でした。研究者志望でとにかくやみくもに勉強するしかなかった僕は、不安と緊張感と孤独感に生来の口の悪さが加わり、周囲の学生に対して相当な「噛み付き癖」というか、周りをバカにした態度があったように思います。交換留学後はこの傾向が更に加速し、他の先生方にも失礼がいろいろあったと、後で聞きました。
例えば、そのころ鵜飼ゼミは初めて他大学の中小企業論のゼミと合同の発表会(インゼミ)をやったのです。そこで僕は大暴れ。他のゼミの報告にいちいちケチを付け、和気あいあいとするはずの雰囲気をぶち壊して、それ以来鵜飼ゼミはそのインゼミには呼ばれなくなった、なんてこともありました。
それでも僕は鵜飼先生に「立場をわきまえろ」とか「もっと勉強してからものを言え」などとは一切言われたことがありません。いつでも、僕に好きにさせて、言わせて、後から「困った奴だ」と苦笑しながら言われるのでした。当時から今に通じる僕の鵜飼先生に対する「甘え」はそこに集約されているように思います。24年間に渡って「何をやらかしても、先生は見ていてくれるだろう、『困った奴だ』と苦笑しながら認めてくれるだろう」と思っているのです。
最初のイギリス留学中、二十歳を過ぎたばかりのはじめての海外暮らしで、精神的に参ることもありました。そんなとき、先生に長々としたメールを書くと、すぐに返信があるんです。すぐの返信ですからだいたい2〜3行。1文のこともあったかもしれません。でも、短くも素早い返信にどれだけ救われたことか。町工場の息子が研究者になろうとする、その過程での不安や葛藤を受け止めてくれる先生がいらっしゃったことは、当時の僕にとって本当に大きな後押しでした。
交換留学期間を入れて学部を5年で卒業したのが2000年春。ちょうどその年に先生の大学院ゼミが初開講し、僕は学部からの唯一の進学者で1期生になりました。大学院鵜飼ゼミ1期生とはいえ、ちょうど前年に亡くなられた経済発展論の先生の大学院ゼミ生を受け入れたため、博士課程3名、修士課程2名が加わり、総勢6名のゼミでした。なにせ分野の違うゼミの学生を大量に受け入れたので、中小企業論をやるわけにも行かず、当初はひたすら雑談のゼミでしたが、このときの雑談も本当に面白く、毎回行くのが楽しみでした。当時、鵜飼先生は呼吸法に興味を持たれていたようで、大正時代の健康ブーム「岡田式正座法」の話をしていたのを、懐かしく思い出します。
2学期目あたりからでしょうか、もともと修士課程で経営史を専攻した後、中小企業論に専門を転換したばかりの三宅秀道さん(3年先輩、現・専修大学准教授)が大学院鵜飼ゼミに加わり、だんだん中小企業論のゼミらしくなりました。三宅さんは当時アイディアはあったものの体系化はされていなかった「中小企業の商品開発論」について実地調査の報告、僕は例によってまだ使い方も知らなかった経済理論を振り回して三宅さんの報告に難癖をつけ、議論とも口喧嘩ともつかないやり取りを大声でやる、なんてことが何度もありました。そんな折には所々で鵜飼先生に話を整理・総括してもらう、というのがいつものパターン。三宅さんはそれから10年以上経った2012年、当時の着想を練りに練って発展させ、『新しい市場の作り方』(東洋経済新報社)という唯一無二の中小企業経営書に見事に昇華させました。他方、僕はいわば経済学という手にしたばかりの「おもちゃの鉄砲」を振り回していただけ。当時の議論を研究成果として出せていません。
大学院ゼミが始まった頃の笑い話があります。ゼミの冒頭、先生が「ウエイトリフティングの試合があるから、来週のゼミは休講な」と。先生は体育局ウエイトリフティング部の部長を長らく務めていたので、他の院生が「学生の引率なんですね」と言うと「違うよ、俺がマスターズの大会に出るんだよ」。まだ「のどかな早稲田」がかすかに残っていた時代でした。
あえて極端な言い方をしますと、鵜飼先生は様々な矛盾を持った方だ、と思います。そして、そこに僕は強く惹かれ、だからこそ頼り甘えているのです。それは恐らく僕自身がそういう矛盾の連続のなかで生きているからです。先生は、関わるあらゆることに本物の親和感(affinity アフィニティ、あえて「親近感」ではなく「親和感」と書きます。「親愛の情」に近いニュアンスです)を持ちながら、それらに引きずられたり飲み込まれることがない。常に異者としての視線を持ち続けられているように思います。でも決して冷めているわけではない。対象との親和感と距離感を共存させておられるのです。
町工場(とはいえ早稲田の理工出身のエンジニアだったお父上の創業と聞いていますが)の息子である鵜飼先生は、地元の小学校から名門国立中学校に通い、都立の進学校を経て早稲田大学ではウエイトリフティングに打ち込み、大学院商学研究科では経済学と並んでケインズの『確率論』を哲学的な側面から研究されました。大学院を出たあとは、一時アカデミアを離れ民間シンクタンクに勤め、その時のお仕事から産業論、中小企業論へと研究分野を転換します。そして早稲田大学に戻り、教員として、組織人として生き貢献され、同時に政府や地方自治体の産業政策にも深く関わりを持たれたことはみなさんのご存知のところだと思います。
先生の町工場の現場に対する親和感、そこに生き暮らす人々に対する親和感、国立校エリートの世界に対する親和感、早稲田に対する親和感、体育会系の世界に対する親和感、経済学に対する親和感、キリスト教に対する親和感、哲学的問いに対する親和感、企業組織に対する親和感、大学組織に対する親和感、産業政策に対する親和感、僕が知る限りそのどれもが真摯で偽りのないものです。
と同時に、それぞれの親和感は本来矛盾する側面が大いにあります。町工場の立場からすれば、お役所のやっていることは違和感だらけです。鵜飼ゼミには体育会系の空気は一切ありませんでしたし、僕は体育部の元選手・部長としての鵜飼先生は知る由もありません。先生が体育部や大学院で上下関係に厳しい環境におられたのは言うまでもありませんが、僕のような生意気な学生の無礼には寛容などころか、それを楽しんでいるようにさえ見えました。「理屈では説明できない」製造業の現場・技術に密着すると同時に、理屈を突き詰めた哲学的な思索も常にされていました。企業組織や大学組織に対する批判的な見方も先生からたくさん教わりましたが、と同時に先生は組織の秩序や手続きを守る人でもありました。
相反する親和感は、全て違和感にもなります。先生は親和感を持つ全ての事柄に、違和感も自覚的に持ち合わせておられるように見えます。しかしながら、そうした親和感と違和感が先生の強力な知性・感性によって同時に先生ご本人に体現され、それが社会や組織の観察者としての、研究者としての、そして教育者としての鵜飼先生を形作っているように思います。そのような類まれな知性に若い頃から直に触れられたことは僕の人生の幸運としか言いようがありません。
ちなみに先生はこうした違和感を、時おり皮肉の効いたユーモアで表現される人でもあります。僕が学部生だった当時、早稲田に「株式会社 早稲田大学事業部」という大学の関連会社ができました(現・早稲田大学プロパティマネジメント)。その会社の看板を見て先生曰く「株式会社早稲田大学 事業部、じゃないのか」。当時の総長のもとで変わる早稲田大学を皮肉った、一流のジョークでありました。
僕にとって鵜飼先生は早稲田随一の教養人でした。地に足の着いた、僕が憧れる教養人です。学内でも、それから学外の人と話していても、時々鵜飼先生が「現場を知っている方、実地調査をやられている方」というようなイメージを耳にしますが、とんでもない。僕にとって先生の凄みはそうした現場の観察を安易なキャッチフレーズや理論フレームワークにまとめず、先生の教養の全体の要素として昇華していくところにあります。僕はケインズ『一般理論』の第24章を語る先生と、熟練工の技術を見つめる先生とが、一人の人物に体現されているのが、たまらなく好きで、憧れるのです。一方、弟子としてあえて不満を言わせていただけば、そういう先生の知性・感性をもっと表に出して欲しかった。教養人としての先生をよく知る人はあまりに少ないように思いますし、どうやらご本人もそうした側面を広く表に出すことを望んでいなかった、と思われる節があります。
僭越ながら僕なりに先生の知性の基礎を推察すると、それは「身体感覚の考察」というところに行き着くように思います。幼少時代から製造業の現場に過ごした原体験、ウエイトリフティングの選手・指導者としての修練。先生と議論をしていて大変興味深いのは、どんなに膨大な知識をもってしても、洗練された考察をもってしても、やはり究極的に「身体感覚」を(疑いつつ)信じる鵜飼先生が垣間見える点です。先生のお話を「分かりやすい」と思う方々が多いのは、先生のこうした側面に共感しやすいからではと思います。逆に、これまで述べたように僕は先生の知性に多大な影響を受けましたが、残念ながらその核心部分である「身体感覚」の部分は全くと言ってよいほど継承できませんでした。この点は弟子として情けない限りです。
僕は2001年からイギリスに再留学して理論経済学を専攻し、博士号取得後、イギリスの別の大学で職を得て2016年に早稲田に戻ってきました。母校に帰ったとは言え、(学生時代の素行不良が祟ってか)先生のいらっしゃる商学部には戻ることができず、研究者としても先生とは全く異なる道を歩んでいます。先に述べたように何せ季節の挨拶もろくにしないような弟子ですから、イギリス在住の間は年に1、2度、一時帰国の際にお会いする程度でしたが、帰国するたびに先生と高田牧舎でランチを食べながらお話するのは僕の心の支えでした。二十歳を過ぎるまで全く縁が無かった海外に長くいると特に、若いときから見ていただいている先生の存在、甘えられる存在は、とてもありがたく、心強く感じました。
僕が早稲田に戻ってきてから教員として取り組んでいるのは、まさに鵜飼先生の真似事です。僕が戻るのと入れ替わるように、早稲田では団塊の世代の先生方が次々に退職され、研究力重視の人事で「優秀な研究者」としての教員が増えている一方、おおらかな早稲田の良さが失われつつあるようにも思います。僕が先生から受けたような幅広い知的刺激を、若い早稲田の学生に伝えたい。僕が学生だった頃のように「雑談を聞くために行く」ような授業がやりたいと思っています。先生の雑談ネタを恥ずかしげもなく拝借して我が物顔で講じながら、でも今はまだあのレベルの雑談はできていない。何しろ基礎的な読書量からして先生の足元にも及ばないのですから当然です。ある日そんなことを先生に話したら「授業はちゃんとやれよ」。「先生、僕が学生だった頃と違うじゃないですか」と少しムキになって申し上げたら、実は先生ご自身、近年は時間どおりに授業を始め、きっちり科目内容を講じておられるようです。不肖の弟子が出来もしない真似事をしようとしている最中に、先生は先に進んでおられました。いつまで経ってもこの弟子は先生に追いつきません。